2017年3月7日火曜日

愛国心はプロパガンダ!?

三島由紀夫は”愛国心”ということば好きではなかったようです

実は私は「愛国心」といふ言葉があまり好きではない。 
何となく「愛妻家」といふ言葉に似た、背中のゾッとするやうな感じをおぼえる。 
この、好かない、といふ意味は、一部の神経質な人たちが 
愛国心といふ言葉から感じる政治的アレルギーの症状とは、また少しちがつてゐる。 
ただ何となく虫が好かず、さういふ言葉には、できることならソッポを向いてゐたいのである。 
この言葉には官製のにほひがする。また、言葉としての由緒ややさしさがない。 
どことなく押しつけがましい。反感を買ふのももつともだと思はれるものが、その底に揺曳してゐる。 ”




「愛国心を口にするのは破廉恥だ」というように思える。
国を思う事を否定してるわけでない。
実際、愛国心という言葉を唱える”ネトウヨ”と言われる人達の発言は国を思っているとは到底思えない。

後半の”官製のにほひがする”というのは私も感じます。

まずは、明治維新以前には日本人には現代のような”国”という概念はなかった!



つまり幕府があり藩があるという今でいうところの連邦国家のような体制だった。
”国”とは藩の事だった。
だから”国盗り”という表現もある。
今でも東京では地方出身者が地元に帰ることを”クニへ帰る”といったりする。

”愛”。”LOVE”という概念もない

つまり”愛国心”とは明治政府の富国強兵政策によってつくられた政治的な宣伝(プロパガンダ)だという事です。

では、私は”愛国心”を否定するか?

私は”愛国心”を否定しない!

明治維新のころは欧米列強国がアジアの植民地支配をどんどん広げていっていたころです。
日本は植民地にならないように必死でした。
もっとも、植民地なってないと言っていいかどうか。
そうでしょう。
明治維新の資金が誰が出したのかを考えたら独立国というのは怪しいといえます。

それは置いておいて当時は”藩”という単位から現代の概念に通じる”国”という単位で考える必要があった。
そのために明治政府は国民に”愛国心”を植え付ける必要があった。

しかし、”国”とか”民族”は幻想ではないのか?

上記で紹介している苫米地英人氏がよく言われる”抽象度”という概念を取り入れて
抽象度をどんどん上げていくと”国”というのは幻想だというのが実感できます。
”抽象度を上げる”という事はまた別の機会の説明します。

しかし、抽象度をどんどん上げていくと
Zガンダムで出てきた全天周囲モニター・リニアシートで1人ぼっちで宇宙に放り出されてしまったような感覚に囚われます。
では、どうするか?
もう一度抽象度を下げて具体度を上げて”国”や”民族”というところまで降りていきます。
一度、宇宙に放り出される感覚を味わうと人生において国・民族・文化の持つ意味がわかってくると思います。




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